【プロフィール】あの日僕は足が動かなかった。だから700km歩いた。
簡単なプロフィール
やかず
1991年2月20日生まれ(26歳)B型
生まれも育ちも現在も東京都
出身大学:日本でも規模が大きい大学
大学時代から公務員試験を受験するも、あと1歩のところで採用漏れ。
全く別の会社員として、働きながら、本当の安定を模索中。←今ここ
地方から出てきた子の最寄り駅聞いて「その駅準急止まるけど急行は通過だよね?」といって引かれるほどの鉄オタ(猛烈に後悔中)
名球会入り投手の勝敗数、出身校、球団、背番号の遍歴がすべて脳内にあるプロ野球オタ変態
ちなみに野球は未経験
例に漏れず、お金とかわいい女の子大好き
さあ、誰得のやかず26年!多分3分くらいです!お付き合いくださいませませ!
比較的裕福で温かい家庭で育つ
僕は比較的裕福な家庭で育ちました。
両親も理解力のある温かい家庭です。感謝感謝。
「比較的裕福」と書いたのには理由があって、
やかず一家は普通より少し上くらいのサラリーマン家庭なのですが。
じーちゃん:日本三大エンジニアリング会社役員
じーちゃん兄:石油会社仙台支社長
僕が本名を名乗らない名乗れない一因でもありますwww
要は父がお坊ちゃま。
その息子の僕は「比較的裕福」ポジションになるのでしょう。
いわゆる「一族の恩恵」みたいなのは今に至るまで、ずっとある気がします。
毎年じーちゃんばーちゃん&やかず家4人の計6人で海外旅行(すべてじーちゃん持ち)
お年玉や入学祝いは、多分クラスで1番貰っていた気がします。
詳しく知らないけど、やかず実家の都内マンションのローンもかなり負担してくれていたそうな。
結果、今に至るまで「ウチは貧乏だ」と思った記憶があまりありません。といっても決して「お金持ちの家」ではありませんが。
鉄道と野球オタクのデブ少年時代
幼稚園の友達の家で「箱根登山鉄道」のビデオをみて、鉄道に初恋。
翌日以降タカヤ君の家に「はこねのビデオ。かしてください」とあまりに来るもんだから、
タカヤ君ママが折れたらしく「はこねのビデオ」の所有権が、やかず家に移りましたとさwwwww
ちなみにこの恋の病は26年たった今も不治の病です。付き合いなげーな。
何かと理由をつけて、近所の赤羽駅踏切で「次は何が来るかな」と何十分も立っている。そんな少年でした。
特急白山、あさま、北斗星が来た時のテンションときたらwwwww
今はその踏切も、上記の特急もすべてなくなっています。心の風景ノスタルジー……….
小学校2年までは鉄道一筋でした。
そこにプロ野球が加わります。
福岡から来た転校生が「これ知ってる?2枚あるから1枚あげるよ」と、
僕にくれたのが
プロ野球チップスの野球カード。選手は当時ルーキーだった高橋由伸選手(現監督ですね。時代の流れよ….)
部屋をゴソゴソ探したら捨てるタイミング見失ったエロ本と一緒に出てきました
なんだろう。多分イケメンだったので、はまったのでしょうね。
以来、野球やらないのに、その転校生とプロ野球チップス買いまくり、おまけに「チップス」もシャクシャク食ってたので
ハイ!
「鉄道とプロ野球オタクのデブ小学生」の出来上がりですwwwww(写真?絶対見せませんよ www)
クラスの女の子からの評価は推して知るべしですねwwww
また、はじめて観た東京ドームの試合で、仁志敏久選手の直筆サインボールなんかゲットしちゃうもんだから、すっかりプロ野球のとりこに。
その後そのチームの大人の裏事情を知り、福岡の某球団ファンに乗り換えました。
中学高校はとにかく地元が嫌で付属校に
とにかく僕は、地元の中学に行くのが嫌でした。
地元中学は荒れてはいませんでしたが「みんなと同じスタートラインだと自分はいずれ負ける」というのが心の奥底にあったのかもしれません。
その一心で皆とは別のフィールドを求め、中学受験の塾に通っていました。
結局、中高一貫の大学付属校に6年間通うことに。
プロ野球オタクは出していましたが
鉄道オタクは女子からキモがられることは分かり切っていたので、一切隠していました。
特にいじめ等もありませんでしたが「6年間普通に過ごしたな」というのが正直なところです。
成績は中1、高2、高3が、まあまあの上位
(ただし日本史学年1位、英語数学赤点ギリギリみたいな超アンバランスでした)
中学美術部と高校水泳部もなあなあ。
「女子と一切しゃべれません」でもなかったですし、普通に友達もいました。でも本当に普通でした。
ただ、高校3年間3回告白してフラれても、ずっと好きだった初恋の人がいました。
この初恋のおかげで人として成長できた気がします。
今でも僕を「真面目で礼儀正しい」「人柄いい優しい」と言ってくださる方多いのですが
この人に振り向いてほしかった一心で身に着けた能力だと思います。
10年以上たった今でも宝物みたいな思い出です。
大学は付属校から内部進学のテストで、その大学に進学。
つまり大学受験は高3の年明け前に終了。
センター試験の日、僕は車の教習所にいました。
就活生の苦悩がトラウマから大学生活スタート
入学直前の2009年3月の終わり、
僕にとって未だトラウマのTVを観てしましました。
ドキュメンタリー番組で、詳細は忘れましたが
↓
早大生「私は学生時代に~~」
面接官「(話遮り)今ね、就職超氷河期なんだよ。即役立つ資格とかあるの?」
早大生「いえ………ですが!!学生時代に…..」
面接官「あー君もういいよ」
後日、不採用通知すら届かず。(いわゆるサイレント)
「先日出しました、内定通知を取り消させていただきます」の郵送。
「どうしよう、これから」と実家に泣きながら電話する慶応女子大生。
トップレベルの大学生の就職活動は今日も路頭に迷う…………
的な番組でした。
高校時代「街とか好きだし、ダイヤモンドが3個ある地所のトコ入りたいな」と寝言言っていた僕にはあまりにもショックすぎる内容でした。リーマンショックもありましたし、煽りの要素も強い番組だったのでしょうが、それは今振り返って思えること。世間知らずって怖いですね。
キャンパスライフ直前にして
早慶よりはるかに偏差値低い大学の僕は、
将来に大きな絶望と焦りが襲ってきてしまったのです。
そしてそれは、あれから8年もたった今でも僕を苦しめる大きな闇となっていきます。
不安でガリ勉やったら特待生に、そして47都道府県制覇。
大学授業初日の帰り道。いつでも動けるよう、いわゆる仮面浪人と他学部転部について調べまくりました。(結局いずれもしませんでしたが)
「オレンジデイズ」のような青春学生でキャンパスライフを謳歌。という余裕は一切ありませんでした。
もちろん成績下位なんてもってのほか。単位も絶対に落とさないよう、興味ない講義も血眼になって受けていました。
ちなみに翌年の夏まで、履修したすべての講義は一番前で聴き、補講も含め無遅刻無欠席でした(←大学で皆勤賞?wwww)
結果、成績優秀で大学で特待生になれました。嬉しい反面「就活のネタになるかな」と、いつも頭には将来の不安が付きまとっていました。
それでも、少し気持ちが落ち着いたのか、2年次からサークルにも入り、その特待生のお金で47都道府県を全てに足を運びました。(道中ネタになったモノは今後発信しますね!!)
この頃から、僕は「観光」ではなく「旅」をすることが、日常の延長線上にある人間になっていった気がします。
民間と公務員試験の両立
就職活動は本当に必死でした。
でもロクな調べ方もしておらず「ともかく安心安定できるところに」というアンテナで動いていたため、
民間企業と公務員試験(学内講座)の精神的にも体力的にもハードな毎日を送るハメになります。
全開のクセに空回りする就活エンジンに対して、ギアとハンドルが全くか噛み合っていませんでした。
地に足がついていない状態でした。
何者にもなれないまま大学卒業
結果、民間企業を途中であきらめ、既卒浪人覚悟で公務員試験に絞りました。
この時4年の夏。……….そして本当の親友との卒業旅行だけを残りの楽しみに。2013年3月卒業………………………………
大学で特待生までとりながら、何者にもなれないまま卒業したのは、多分僕だけでしょう。
合格は地獄の序章
卒業してからは「ハタチを過ぎた浪人生」
大学に通っていた方ならわかると思いますが、この時ほど社会不適合者感MAXを感じることはありませんでした。
毎日自宅から逃げるように図書館に通いつめ、やりたくもない数学の過去問あさり。両親や周りとの関係もぎくしゃくしてきました。
僕にとって2013年は今まで生きてきた中で多分1番嫌な1年です。
今でも野球WBC2013大会だけはいい気持ちで観ることができません。
そしてその努力の甲斐あってか、2014年5月。2年越しに東京都23区の職員試験に合格しました。しかも合格者1200人中500位で。
「これでやっとすべて終わる。ひと段落して新たにスタート切れる」と安堵したのを昨日のことのように覚えています。
が、これは喜びではなく地獄の序章でした。
正直この文章書くだけで胃が痛くなります。
東京都23区職員には「区面接」というのがあって
「23区の職員に合格した人リスト」の中から、千代田区のような「各区」がオファーをし「区面接」する形をとっています。
つまりどの区の面接も通らなければ「採用漏れ」となり、今までの苦労がパーになります。
その確率はごくごく低いもので「とは言え、上位合格者はどこかの区は採用される」が通説でした。
心身の限界
結果から言います。
僕は「採用漏れ」になりました。
合格してから、毎月どこかの区からオファーの電話があり、採用を信じて足を棒にしてその区を調べ、その度不採用通知の郵送。たらい回しされること半年。
「明日区役所のこの資料コピーしよう。履歴書も練り直して。でももし落ちたら来年か、もう社会人無理かもな。となると今からでも受かるブラック求人会社入って、かつ試験勉強して…………..」頭の中はいつもこんな感じでした。
そしてある日、
自宅最寄り駅のホームの時計の針が夜9時過ぎくらいだったのを記憶しています。
上記のような頭で徒歩10分ちょっとの帰路につく途中
ガクン!!!!
最初、誰かのいたずらで膝カックンされたのかと思いました。
しゃがんだ状態で周りを見渡しましたが誰もいません。
「あれ?おかしいな?」すぐそばにベンチが見えたので、そこに座ろうと思いました。
が、力が入りません、足が動かないのです。
なんとか事実上這うようにしてベンチに座り、じばらくボーっとしてました。
そのベンチから自宅まで同じことを何度も繰り返してました。
帰宅。そのとき自宅の時計の針は0時過ぎ、日をまたいでました。
徒歩10分の道に3時間費やしました。
この事実を理解したとき、僕は、1人部屋で信じられない量の涙が出てきました。
「もうダメだ」
気が付くと僕の頭にあったのは「自殺」の2文字でした。
「こんな使えない足、切り裂いてやる」と部屋から包丁のある台所に行こうとしました。
完全に思考が狂っていました。
でも、本当に足が完全に動かなくなり、それすらできなくなりました。
僕は腕で部屋のあちこちを這いながら、いままでの人生の何倍もの量の涙を流しました。
「ある日」と書いたのは、本当に何月何日だったのか覚えていないからなのです。
泣きながら腕だけで部屋中を這ったあの日の僕の姿は、多分僕の人生で一番「見たくない自分」でしょう。
すべてを変えた宮古島
見かねた両親が2015年1月「違う環境でちょっと休んでみたら」と
前から行ってみたかった沖縄県宮古島の旅を5日間手配してくれました。(軽く書いてますが、本当に両親もつらい毎日でした)
僕は「もしあのきれいな海に飛び込んだら、楽になれるかな」と羽田からの飛行機で考えてました。
そして心身がボロボロの状態でたどり着いた初の宮古島で
僕の人生はひっくり返ります。
あの島の海の想像を絶するきれいな青。
どこまでも続く海と地平線。
そのきれいな海の大橋のたもとで、プハっと呼吸をしにきたウミガメ。
「そのへんにいる」という神様との距離感なのか、あちこちにむきだしにある鳥居や御嶽(祠のようなもの)
人生初のゲストハウスで「誰が成功した失敗した」なんてことで生きていない宿泊のゲストたち、競争意識のないコミュニティ。
本音をさらしても、お互いつつみこんでくれるかっこいい大人の旅人たち。
この宮古島で「深呼吸」することで、すこしずつこの島が僕を救ってくれているのを第六感でわかりました。
この島にまた来たい。この島に祝福される人生がいい。
あとで気づいたことですが、こんな考えも浮かび上がってきました。
宮古島の旅を終え、2015年2月から、まったく違う職種の企業に入社。
はじめは納得できず自暴自棄な一面もありましたが、尊敬できる先輩上司(←本音)に囲まれ、今では楽しく感謝しながら仕事をする毎日です。
今後は「本当の安定」と「あの日の自分を迎えに行く」
別の記事で詳しく書きますが、会社での仕事もそこそこなれた2016年9月から、
「歩けなかった自分」を覆すため。東京から京都までの「東海道五十三次」500kmを「歩き繋げ」ました(一気にではなく。休日を使い静岡~浜松。滋賀~京都。といった感じ)
今年2017年2月にゴールをし、その延長として大阪、神戸、淡路島、四国と
その距離を700km伸ばしています。(このブログを書いた2017年7月31日 時点で淡路島まで)
「歩けなかった足で700km歩いた」事実は、過去の僕と、このブログを読んでくださった誰かの心に伝わることを願ってやみません。
そして2017年4月にふとしたきっかけでご縁があったプロブロガーあんちゃさんのもと(?)ブログ発信といわゆる「複」業にチャレンジし
「会社員とフリーランス」で本当の安定を考えていきたいなと思っております。
だから「稼げる手段」になるかもしれない「鉄道と野球」という僕の強みを冒頭にタラタラ書かせていただきましたwww
もうひとつ!!
「人生終わらせようとおもった宮古島」で「フルマラソン」に挑戦して
宮古島に「あの時はありがとう!僕はとりあえず元気になれました」と報告しようと
2017年10月29日の宮古島マラソン大会に向けて、素人なりに走りこんでいます。
結果はどうでもいいです。宮古島に祝福してもらえれば。
そしたら次は「同じ挫折を味わった人」に「人生楽しいよ」という道しるべみたいものに僕自身がなりたいと考えています。
なにができるか分かりません、なにもできないかもしれません。
でも「なにかできるかもしれない」と思わせてくれる同世代の仲間に最近出会いっぱなしです。たとえばプロ無職のるってぃさんとか。
多分今は「貯金」より「貯信(信用)」の時代です、
発信力を高めつつ、これから僕は残りの20代駆け抜けていく所存でございます!!!
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!!!!
ここまで読んでいただいた、画面越しのあなたとは、いつ、どんなご縁でお会いできるでしょうか。
お互い笑顔になれたら、最高ですね!!!!
楽しみにしています!!!!!!!